人が来ることによって空間が変わっていく〈縁卓〉

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ある画家が、日がな一日窓に向かい、窓の四角をキャンバスに見立てて、横切るものの軌跡を線で引くのが至福の時だと言っていた。ここにはその窓がある。黄色い蝶がひらひらと不規則な螺旋を描いたかと思うと、虫がつうと斜めに走る。時折、鳥が飛んで来て、トカゲが下草を揺らす。その間にも光が刻々と変わり、風が行き過ぎる。時には雨の滴が落ちてきて、ふと、どこからともなく聞こえるピアノ。キッチンからはスパイスを煎る音やカレーの香りが漂ってくる。今回はこの窓の主、「縁卓」の中村英樹さんにお話を聞いた。
実はフーテンの寅さんになりたかったという。何をして生きていくのか、自分に何ができるのかと考えた時に、まずは好きなものを食べにいこうと、カレーに行き着いた。なんならこれを自分で作ったらどうだろう?と考え始めた中村さんを、大好きなカレー屋の親父さんが「この歳からフレンチは難しいけど、カレーならできるよ」と勇気づけ、カレーを教えた。そうだ、移動販売車でカレーを全国に売りに行こう。そして行く先々でいろんな経験をして、失恋して帰ってくるのだ。

「いや、ほんとにそう思ってました(笑)」
だが幸運なことに(もしくは、寅さんになるよりは、ということだったのか、)カレーを出すなら、物置にしているこの建物が使えるのでは、という話が持ち上がる。もちろん家の敷地内で商売をすることに反対や心配の声もあったが、やんわりと受け流し、強行に物置を片付けた。出てきたのは、自分が入るくらいの大きな醤油樽や、臼や杵、洗い張り板や農機具など、生活道具たち。どれ程の時や人々の生活がこの場所を共有してきたのかを想像するだけで豊かな気持ちになる。

土壁など既存のものは極力残し、「とりあえず、親兄弟友だちが集まれる場所を」作り始めた。実家はサラリーマン家庭ではなく、子どもの頃は祖母が鍬で畑を耕すそばで土いじりをして遊んだ。家でも近所でも、自らの知恵や術を持ち、体を動かす人たちの中で育ったため、この建物を改修するにあたり、設計者を置かず、人の力を借りながら「僕だからできることを、自分でやりたい」と思うのは自然な流れだった。建物のことでわからないことがあると、大工さんに待ってもらい、図書館で調べた。そうして完成するまで3年がかかった。

空間に入ると見上げるほどの高い天井と立派な梁。梁と柱は縄で補強を兼ねた見事な意匠が施してある。これは「海老結び」と呼ぶそうで、中村さんが編んだ。監督したのはここで籐(とう)を使ってものづくりをしていた叔母。こんな風に、この場所のあらゆるものは思い出に紐付いている。
かくして、宣伝もしない、看板もない、駅近でもない、カレー屋が誕生した。カレー屋といっても、大事なのはこの空間であって、カレーはあくまでも「ここで過ごすためのもの」と言うが、お料理はどれも本格的に美味しい。タンドリーチキンが美味しいお店に出会うと、「美味しいね〜!どうやって作るの?」と声をかけ、「(キッチンに)入ってきなよ!」となり、3軒ほどのカレー屋さんで中を見せてもらい、自分のものにしていったという。チキンを焼く自家製タンドール風窯は、近所のおじさんの力も借りて完成。串はホームセンターで購入した棒の先を切って尖らせた。

庭に面した縁側沿いは全面ガラスで、庭を見てもらいたいから、テーブルの高さは窓辺ではちゃぶ台ほどで、奥へ行くほど段々と高くなる。肝心の庭は当初、草もなく土肌を晒し木だけが生えていたそう。正面にはどんぐりの白樫。秋に香るは金木犀。通常の一本立ちではなく、数本が寄り添って見える樹形(株立ち)がなんとも趣深い。ここで70年くらい前に温室でアマリリスなどの花の栽培に精を出した祖父の思い出もあり、風に揺れる山野草を植えた。あとは、鳥が糞をし、その中の種から芽が出るのを待った。季節は一年に一度きり。縁卓はまだ9回目の夏を終えたところ。縁側の庇がわりの布がまた良い。今は根巻き用の麻布だが、先日まではイッセイミヤケの白い布をかけていた。「何事のおはしますか」と思うほどの優雅さに目を奪われたことを筆者は覚えている。光を和らげ、かつ、撮影用のレフ板のように店内に光を届けていた。
ある時「みんな足元には何かある」というお坊さんの話を聞いて、「僕にはここがあり、周りには家族や友だちがいる」と思った、と中村さん。庭の柿の葉や笹の葉をデザート皿に使うなど、ここだからこそできることをして、喜んで帰ってもらえたら。縁卓では、夏には流しそうめん、秋冬には焚き火の会を催し、時には朗読会やダンス、布の展示会などにも場を提供する。「懐かしいと感じると、なんだか旬な気持ちが芽生えてくることがありませんか?」と中村さん。そこから思い出が膨らみ、嬉しくもなり、元気にもなる。だから、縁卓にも一つ一つの懐かしい思い出が紐付いていくといいという。色々と混ぜ合わせて味わうスパイスのように、「いろんな方達との関わり合いの中で生かされ、生きている」。空間があって人が来て、人が来ることによって空間が変わっていく。

大家族で育ったからか、カレーや鍋などみんなで食べるものが好きだという中村さん。カレーの思い出は、お母さんが夜、声楽教室に出かけるときに自分たちを思って作ってくれたカレー。学校からの帰り道、遠くからでも「うちのカレー」の匂いを嗅ぎ分けた。今は縁卓に向かう人々がここでの時間やカレーに思いを馳せながら、もしかしたらカレーの匂いを辿りやって来る。先日、ある若者が「おばあちゃんちに来たみたい」と呟いたそう。おばあちゃんちはここみたいなの?と聞くと、そうではないと言う。ここに来ると、心がしんとする。きっと縁卓は、みんなの心の奥にある原風景なのだろう。

玄関マットに誰が置いたのか、木の葉が並んでいた。何かの暗号?取材開始から気付くと5時間も経っていた。摘んでくれたレモングラスの葉を嗅ぎながらさよならをする。狐につままれたような不思議な時間。振り返ると消えていたりして、と振り向くと、笑顔の中村さんがぎこちなく(いつもはこんなことしないけど、みたいな感じで)手を振ってくれていた。
(写真と文 篠田英美)

縁卓

埼玉県さいたま市南区南浦和1丁目22-10 TEL/050-3639-4702
営業時間/ 11:00~15:00、18:00~21:30 事前予約制  土 11:00~15:00
定休日/金