傷寒論 傷寒例 第二十四條

凡兩感病俱作治有先後發表攻裏本自不同而執迷妄意者乃云神丹甘遂合而飮之且解其表又除其裏言巧似是其理實違夫智者之舉錯也常審以愼愚者之動作也必果而速安危之變豈可詭哉世上之士但務彼翕習之榮而莫見此傾危之敗惟明者居然能護其本近取諸身夫何遠之有焉。

凡そ兩感の病俱に作る治に先後有り表を發し裏を攻むること本自から同じからず、而るに妄意を執迷する者は乃ち云、神丹甘遂を合して之を飮めば且(ま)づ其の表を解し又其の裏を除くと、言は巧みにして是なるに似たれども其の理は實と違ふ、夫れ智者の舉錯するや常に審(つまびら)かにして以て愼み愚者の動作するや必ず果にして速かなり安危の變豈(あ)に詭(いつわ)る可(べ)けんや、世上の士はただ彼の翕習の榮を務めて此の傾危の敗を見ることなきも惟り明者は居然として能くその本を護り近く諸を身に取る、夫れ何ぞ遠ざかること之れ有らん。

一般に兩感(表と裏)を同時に病むというのは、治方に先と後がある、發表攻裏というのは、本來同時に出來ないのである、而れども自分の考えにこりかたまっている者は、乃ち神丹甘遂(發汗劑・下劑)を合わせてこれを飮めば其の表を解して、又其の裏を除くと言う、言葉は巧みで正しく思われるが、其の理論が實際と違いがある、一般に知恵のある人が事を行う時、常に審らかにしたうえで愼重におこなう、おろかな者の動作するのは、必ず迷わないで速い、安危の變というのは、どうしてごまかされるだろうか、世見の人は、但だ彼の威光の盛んな榮だけをみてあやういやぶれを見ないのである、ひとり明なる者は根本を守り、自分の經験に生かすならば、醫學の正しい道から遠ざかることがあるだろうか。