引退されたDrのお便り

先日、近所の80歳を超えたドクターが引退され閉院されました。

その、際戴いたあいさつ文の一節に「老いぬと知らば、何ぞ、閑かに居て、身を安くせざる」と書かれていました。

徒然草の一節に有った言葉だと思い、現代訳を調べてみました。

「高倉上皇の法華堂で仏道修行をしている僧侶で、なにがしの律僧と呼ばれる者がいた。ある日、その僧侶が鏡を手に取って自分の顔をつくづくと眺めてみると、自分の顔が醜くて見苦しいことに気づいて悩むようになった。鏡さえ疎ましく感じるようになって、その後は鏡を恐れて手にすら取らなくなった。更に、人と交わることもしないようになった。御堂の法華三昧の仕事にだけ精を出して、自分の部屋に引きこもっていると聞いたのだが、こういったことは有り得ないことではないと思った。

頭の良い人でも、、他人のことはよく見えても、意外に自分自身のことは知らない。自分のことを知らないのに、他人のことが分かるという道理はない。それでは、自分のことを知っている人を、物事を良く知っている人と言うべきだろうか。自分の容姿が醜くてもそれを知らず、心が愚かであることも知らず、自分の技芸の未熟さも知らず、自分の身分の低さも知らず、年老いているということも知らない、病気に罹っていることも知らず、死が迫っていることも知らず、仏道修行が不十分であることも知らない。

自分についての非難も知らないので、他人に対する誹謗ももちろん知らない。しかし、顔は鏡で見ることができるし、年齢は数えれば分かるものだ。自分のことをまったく知らないというわけではないが、欠点に対する対処法を知らなければ、知らないということと同じようなものだ。容姿を整えて年齢を若く見せろというわけではない。自分の未熟さや欠点を知ったならば、どうしてすぐに退かないのだ。

『老いたことを知ったならば、どうして静かに隠居して気持ちを安らかにしないのか。』

行いが愚かだと分かっているなら、どうしてこれだと思う正しいことをしないのか。

まったく、人に愛されていないというのに、人と交わろうとするのは恥である。容姿が醜いということで気後れしながら仕事をして、無知であるのに偉大な人たちの中に交じり、未熟なのにしたり顔をして、白髪頭で年老いているのに若い人の中に交じり、できもしないことを望んで、叶わないことが分かっている事に悩み、来るはずもない人を待ち、人を恐れて人に媚びている。これは、他人が与える恥ではなくて、自分の貪欲さに引き寄せられて、自分で自分を辱めているのである。貪欲の心が収まらないのは、命が終わる瞬間が、今ここに迫っているという実感がないからである。」

生命の摂理を知り、己を知っている人が言える深い言葉だと感心しました、長い間ご苦労様でした、そして、ご自愛いただき次に続く者への手本と成って下さい。